
このことから勝俊は卑怯者の誹りを受ける。勝俊の妻は森於梅であり、織田信長の家臣の家で育った。於梅の弟森蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟は、本能寺の変において信長に殉じ、壮絶な討ち死をしている。於梅は勝俊を恥知らずと呼び、仏門に入る。後世の人々も、勝俊の所業を同様に評価する。
しかし、北政所は違っていた。
勝俊は、「始終相続可仕子孫も無之候」と、自分には自分の後を継ぐ如何なる者も居ないといい、責任がおよぶのを自身一人に止めている。
この後、勝俊は長嘯子(ちょうしょうし)と名を改めて、歌人としての人生を送る。
当時、京都では朝廷を中心とした歌壇活動が行われていた。その活動は極めて保守的・形式的であり、型にはまったものであった。
長嘯子の歌は「万葉集」や古歌にのっとりながらも、新しい感覚のもとに作り上げた歌であり、人々を驚かせた。
卑怯者、恥知らずと批判されることもたびたびあったが、「思ふ所なきにあらねど、世のそしり如何有りけん、されど世俗のいふ所、必しもぜひのさかひにいたらざれば、心あらむ人又はづるにたらじかし」といい、その批判も意に介しなかったのである。
そこには地位・名誉・財産、そして妻も失ったが、孤高の生き方が感じられる。長嘯子は自由人であり、何ものにもとらわれない人であり、決して恥知らずな男ではなかった。
今日、長嘯子は北政所の側に眠っている。高台寺の教えは恥を知る教えである。

かつて日本人は、朝起きて布団を片付けて、庭掃除をし、そして門前を掃いて食事をしたものだ。
当然のこととして、全ての人がこれをしていたのである。今はしなくなっている。
通りが汚くなれば、行政の責任と言う人が多い。町を美しくするのは行政ではなく、一人一人の人間である。
自分がすべきことをせずに、責任を他に転嫁してゆくのは日本人ではない。日本の文化は、自己責任を他人に転嫁しないということである。
長嘯子は責任を他に転嫁していない。自らの責任としていた。長嘯子を、高台寺の人々は恥知らずと思ったことはなかった。
「勢い使い尽くすべからず、勢い使い尽くせば災い必ず至る。福受け尽くすべからず、福受け尽くせば縁必ず孤なり。規矩行い尽くすべからず、規矩を行い尽くせば人必ずこれをわずらう。好語語り尽くすべからず、好語語り尽くせば人必ずこれをあなどる。」
この言葉は、人間は勢いを全部使えば、かえって災いを引き起こす。福を自分で独り占めにすれば、人が自分から離れてゆく。決まりをあまり押しつけ過ぎると、人からわずらわしく思われる。いい言葉だと思って語り過ぎると、かえって人にばかにされるという意味である。
北政所の生き方は、中庸の生き方であり、それは禅の教えでもある。
秀吉没後、北政所がどちらにつかれるかで、世の中は変わったであろうといわれている。しかし、北政所はありのままに任され、鮮明にされなかった。
「一日作さざれば、一日食らわず」
この言葉は、働らかない者は食うなということではない。私は一日仕事をしなかったのだから、一日食べないのだと、自分に対して厳しくいっている言葉である。
仏教の心は、他人にはどこまでも優しく、自分自身にはどこまでも厳しくあれ、という心である。
北政所が多くの人々に慕われ、今日でも賢夫人として参拝者が絶えないのは、身をもってこのような生き方をされたからであろう。

高台寺は生命を伝える寺である。霊屋にある花筏は、私たちに生命の尊さを教えてくれる。
お釈迦様は、世は無常であるという教えを残された。森羅万象、私たちの生命ですら一点に止まることなく動いている。
四百年前の幸阿弥家の人々は、お釈迦様の教えを見事に蒔絵にした。川の流れに筏を浮かべ、私たちの生命を表現したのである。
その筏は私たち自身の生命である。川の流れがそうであるように、一瞬たりとも止まってはいない。しかし、見た瞬間の筏は川に流されながらも実に美しいものである。
瞬間の私たちの生命。
悲しいこと、辛いこと、寂しいこともあるが、嬉しいこと、楽しいこと、そして喜びもある。瞬間の生命に、なんと大きなものが入っていることだろう。
大いなるかな生命、だから四百年前の人々はその筏に花を散らしたのである。
高台寺は私たちに、人間の生き方そのものを教えてくれる寺である。 |