鷲峰山 高台寺
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高台寺思考
高台寺執事 後藤典生


つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ


私は高台寺塔頭円徳院で生まれ育った。
円徳院は北政所終焉の地であり、木下家の居館でもあったために、秀吉と北政所に対しては特別の思いを子供の時から持ってきた。
秀吉の辞世の句は、堂々としたものである。天下を取り、栄耀栄華を極めた秀吉は、死にあたり、全てを達観している。
高台寺を取り囲む人々には栄枯盛衰の歴史がある。人間の喜びと悲しみとはかなさを合わせもち、そして全てを達観した思いを備えてきたのである。立って半畳、寝て一畳、所詮人間とはそのようなものにすぎないという思いである。

秀吉は能・茶・詩歌等をこよなく愛した。
能の素晴らしさは、要らないものを極力切り捨てたものである。動きに無駄がない、僅かな動きで多くのことを表現している。
茶は合理的必要最小限の動きの中に、「わび」「さび」等の多くの心を伝えている。
詩歌は少ない言葉数で心、思い、季節等全てを表現している。
人間は裸で生まれ、裸で死んでゆく。何も不必要であり、何もいらないのである。
秀吉の好んだものは、出来るだけ枯淡、そして端正なものであった。高台寺は豪華絢爛な寺のごとくいわれるが、一方では枯淡質素なものを伝えている。

「使う時には万金の金を使え」という言葉がある。日本人はものを買う時、ものを造る時には、有り金すべてをはたいてきたのである。だから、高台寺は何百年という風雪に耐えてきた。常日頃は贅沢はしないが、使う時には万金の金を使うというのは高台寺の歴史である。

日本人は食事の前に手を合わせる。キリスト教徒は神に感謝をして手を合わせると聞く。儒教の人々は、この食事を作り運んでくれたすべての方々に感謝をし、手を合わせると聞く。
仏教徒は、私たちが生きていくために多くの物の命が犠牲になっている、その物に対して手を合わせるのである。肉も野菜もすべて生きていた物だ。

生きている物を殺さなければならない人間の宿命、ならば私たちに代わって苦しみを受けているすべての物に感謝し、手を合わせるのである。

日本人は古来、肉・魚・野菜とはいわずに、物に対して敬語をつけお肉さん、お魚さん、お野菜さん等と呼んできた。西洋の人々にとって、ものに敬語をつけることは不思議なことであるようだ。けれど日本人にとっては、ちっとも不思議ではない。
高台寺にある北政所の坐像と肖像を見ると、生命への尊厳と感謝を感ぜずにはおれない。

終戦後、アメリカの人が「日本の人々は貧しいけれども、気高い人々である」と言った。今日の日本人を見た時、外国人は決して貧しいとは言わない。しかし、気高いとも言わなくなった。
高台寺に残された宝物の特性はその気高さである。

終戦後、アメリカで有名になった本に「菊と刀」という本がある。その中で「日本人は捕虜になると死のうとする。しかし、アメリカ人は捕虜になると生き生きとする」と述べられている。
日本人が生きて虜囚の恥ずかしめを受けないと考えるのに対して、アメリカ人は自分の仕事が終わったと言う解放感に浸るのである。

高台寺の人々は、恥じるということを知っていた。家定の長男は勝俊である。勝俊こそ本来ならば木下家の世継ぎである。しかし、勝俊は武将であることをやめた男である。
勝俊は秀吉の小姓として、恵まれた環境に置かれ、十九歳で龍野城主に任ぜられた。聚楽第修築にも関わり、島津攻め、小田原攻め等にも従軍してきた。
若狭城主に任ぜられたのは二十五歳の時である。
秀吉没後、伏見城留守を任ぜられ、家康が伏見城に移った後も松の丸にあった。家康の五男竹田萬千代に娘を嫁がせていることもあって、家康にとってもその一族として遇されていた。
関ヶ原の戦い前夜、伏見城が攻められた。総大将は勝俊の弟秀秋である。勝俊の親しい大名達は二派に分かれており、どちらにつくにも義を果たせなくなる。思いあまった勝俊は伏見城を退出し、軍勢をつれて高台寺に引き上げたため、伏見城は落城し、本丸を守っていた鳥居元忠等は全滅してしまう。


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