北政所が、懇願されていた三江紹益和尚が高台寺へ入寺された頃、北政所が危篤となられる。
北政所危篤を聞いて諸大名・縁者が高台寺に駆けつけてきた。寛永元年九月六日、遂に永興院で北政所は逝去された。北政所の遺体は棺に納められ、利房・延俊(家定の次男・三男)等に担がれ、高台寺の霊屋に納められ、三江和尚によって葬儀が営まれた。七十六歳であった。

秀吉が死去してから二十六年、北政所が高台寺山内に住まれてから十九年、徳川家は既に家光の時代になっていた。
北政所が秀吉と共に歩んだ時代のことは、今日多くの人々が知っているが、秀吉没後の北政所のことは知られていない。
秀吉没後、北政所は静かな余生を送られた。大名たちが来京した時には挨拶も受けられたが、もはや世に出ようとはされなかった。豊臣家及び子飼いの大名たちの行く末を心配し守ることに専念された。この間、関ヶ原の戦いから大坂冬の陣・夏の陣を通じ、豊臣家は崩壊していったのである。

ただ北政所の木下家(木下家定の系列)は、今日までもその家系を伝えている。徳川幕府の世にあって、廃絶されず今日までに至ったのは、木下家歴代の当主たちの英明で、穏健な思想によるものといわれている。木下家は関ヶ原以降主に文政に力を注ぎ、勤勉で穏やかな家風をモットーとしてきた。それは北政所の生涯そのものであった。
高台寺と北政所については、まだまだ解らないことも多いが、最近方々からお教えをいただき、かなりの歴史が解明されてきている。とりわけ津田三郎先生、宝物については国立博物館の諸先生方にお教えをいただいたことをここに感謝する。 |