鷲峰山 高台寺
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高台寺の歴史
野田文外


豊臣家崩壊
 

慶長三年(一五九八)八月十八日、伏見城で秀吉が病没した。秀吉六十三歳、北政所五十一歳の時である。当時、慶長の役(朝鮮出兵)の最中であり、秀吉の死は極秘とされた。
その年の十二月十八日、家康は秀吉の死を公にし、神として祀ることを大名たちに打ち明けた。
明けて慶長四年九月二十四日、北政所は大坂城を明け渡した。前田利家は大坂城を完全に秀頼・淀殿に引継がせることには反対したと伝えられている。しかし、北政所は、これからは秀頼の時代であるといって、未練も無く大坂城を立ち去ってしまった。大坂城を立ち去った北政所は、京都三本木(京都御苑内南西)に移り住んだ。

この後、世の中は目まぐるしく変わってゆく。関ヶ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣、そして大坂城落城に至り、豊臣家は崩壊してゆく。その間、家康は北政所の動きに目を光らせたであろうことが想像できる。
何故なら、北政所の元には、多くの大名たちが相寄っていたからだ。
秀吉は、正室北政所との間に実子を儲けることができなかった。そこで秀吉は、北政所の閨閥等を一門衆として家臣団の中心に据えた。
北政所は実子がなかったからこそ、家臣団の諸大名をわが子のごとく可愛がったし、諸大名もまた母のごとく慕っていた。
もし、北政所が積極的に動いていれば、歴史は変わっていたと考えられる。
今日、北政所と淀殿との確執を言われる方があるが、必ずしもそうではないように思われる。

秀吉と共に歩み戦国時代を生きぬき、北政所は世の中を支配するのは、実力あるものだという認識をはっきり持っておられた。北政所の動きを見ると、大坂城に居る秀頼をたとえ一大名としてでも、残したいと思われていた様子がうかがわれる。いずれにせよ、実力のあるものとすれば、当時家康以外にはなかった。
 北政所と淀殿との間に確執があるとすれば、歴史を見る目と時代認識が異なっていたのではなかろうか。また、秀吉が足軽の頃から共に苦労し、天下人になるまで共に歩んできた北政所と、秀吉が天下をとってから側室となった淀殿との差も否定することはできない。
 この後、北政所は豊臣家縁故の大名を残すことに専念されてゆく。


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