鷲峰山 高台寺
高台寺ガイド 高台寺ガイド
  高台寺の四季
  年間行事
  掌美術館   倒変木   京・洛市 ねね 門前会   リンク
  東山観光MAP
高台寺ガイド
 
   
  高台寺略年表
   
  高台寺の歴史
  秀吉と北政所
  豊臣家崩壊
  高台寺建立
  三江紹益和尚と高台寺
  北政所の死
   
  高台寺思考

高台寺の歴史
野田文外


秀吉と北政所
 

秀吉は天文五年(一五三六)、尾張国中村(現・名古屋市中村区)で百姓をしている弥右衛門を父に、なかを母にして生まれた。
ねねは天文十七年(一五四八)、尾張国朝日村(現・愛知県清洲町)で生まれた。ねねの父は織田信長に従える足軽杉原定利、母は朝日であった。
二人の結婚は、当時としては珍しく恋愛結婚であったと伝えられている。
朝日はこの結婚を認めようとはしなかった。この頃の秀吉は信長の足軽といえども、元は百姓の生まれ、ねねは士分の家の出身であったからだと考えられる。
そこで、浅野長勝とその婦人七曲(朝日の妹)が、ねねを養女にし嫁がせたのである。この時、二人を結婚させるべく努力したのが、前田犬千代(後の前田利家)である。
二人の結婚は浅野家の長屋で行われた。土間に藁を引き、その上に薄い敷物を敷いただけのささやかな祝言であったと伝えられている。

ねねは、生涯を通じてどこまでも明るく、人々に愛された女性であるといわれている。生涯その庶民的な性格は変わることがなかった。
また、秀吉とねねとは、尾張弁丸出しで言い合ったし、北政所が従一位という女性としての最高位を得た後も、御所言葉とは無縁であったというのは、いかにも秀吉とねねらしい逸話である。
二人の結婚後、秀吉は破竹の勢いで出世し、十三年後には長浜城の城主となり、ついには戦国の世を制覇し、後に関白或いは太政大臣に任ぜられるのである。ただ、ねねにとっては思いもよらなかったことであろう。

ところで関白、或いは太政大臣に任ぜられるには多くの戦乱を潜り、その後も戦乱に明け暮れた生涯であった。秀吉の大きな合戦だけをとらえてみても、墨俣城の戦いから始まり、朝鮮の李舜臣との海戦に終わるまで、実に二百近くの合戦を行っている。
一人の人間が、このように多くの戦いに挑んできた事に驚愕せざるをえないし、秀吉と共に歩んだねねが、この合戦の世に生きてきた事は紛れもない事実である。
天正十三年(一五八五)秀吉が関白に叙任されて天下人になると、ねねは北政所、なかは大政所という尊号で呼ばれることになる。二人が結婚してから二十四年目のことであった。
いずれにせよ、ねねは苦しい生活の時期から、天下を取り権力と富の頂点に立つにいたった秀吉と共に歩んできたのである。
秀吉は晩年、豊臣家の行く末について不安を感じていたようだ。秀吉は諸大名に対し忠誠を誓わせ、家康と利家に対しては誓紙を提出させている。
しかし、このようなことが実効あるもので無いことは、誰よりも戦国の世に生きてきた秀吉自身が知っていたことであろう。北政所も、また同じような思いにあったに違いない。


Copyright (C) 高台寺. All Rights Reserved.