圓徳院由来

圓徳院は、豊臣秀吉の妻、北政所ねね終焉(しゅうえん)の地です。
その由来と関連年譜を紹介します。


 豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。
 それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね58歳の時のことです。
 これが今日の圓徳院の起こりです。ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送り、ここは北政所の終焉の地となりました。
 そのねねを支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房です。圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。寛永9年、ねねの没後9年目のことです。

関連年譜

天文17 1548 ねね誕生。
天正 2 1574 木下利房公(ねねの兄家定の子)誕生。
天正16 1588 北政所(ねね)、従一位叙任。
文禄 1 1592 利房公、若狭高浜を領す。
慶長 4 1599 北政所、大坂城を出て京都に移る。
慶長 8 1603 北政所、高台院の号を勅賜。
慶長10 1605 伏見城より化粧御殿と庭園を移築。北政所移り住む。木下家、圓徳院に客殿(現方丈)建立。
慶長11 1606 北政所、京都東山に高台寺を建立。
元和 1 1615 利房公、備中足守を領す。
寛永 1 1624 利房公、化粧御殿を北政所より賜り永興院と号す。
三江紹益、建仁寺久昌院から高台寺へ入寺。
北政所没す。
寛永 4 1627 利房公、仙洞御所守護を辞任。圓徳院と号す。
寛永 9 1632 木下家後世追福のため、居館を改め圓徳院と成す。
慶安 3 1650 圓徳院開基三江紹益没す。