後藤典生住職の法話

仏教の心を教育の場に

 僧侶になりたいという人が来た。理由を聞くと「気楽そうでいいから」という。僧侶希望者は若い人が多いが、最近では定年を迎えた熟年者たちも時々来る。僧侶になるには厳しい修行をしなくてはならないというと、躊躇するが、頑張ってやり遂げる人もいる。やり遂げる人は一つのことに一生懸命取り組んだり、一つの仕事をやり抜いてきた人である。中途半端はダメで、本人の決意・やる気が問われるのである。
 修行道場というとお経を覚え、所作や仏教の教義を学ぶところと考えられるが、学校とは違う。教師と学生が、教え教えられるという対面的な場所ではなく、共に同一方向にむかって歩み、生活をする場所なのである。
 ホスピスは、お世話する人とされる人が向き合っている感じがするが、寺院は、弱いもの同士が助け合い、肩を寄せ合い、同一方向に向かって人生を歩む場所なのである。
 仏教を基本とするなら、学校も福祉も対面型から同一方向型に変えなければならない。
 般若心経の説明をよく聞かれるが、お経は最初から意味内容を求め知るものではない。何度も何度も読経を繰り返せば、なんとなく解るものである。修行道場では意味など教えられず、ただ一心不乱に読経せよと教えられる。
 大切なのは理論理屈ではなく、形なのであり、その形を身につけることが大切なのである。合掌の仕方、焼香の仕方、数珠の持ち方、風呂の入り方、食事の仕方など、日日の生活における、あるべき姿を繰り返し実行する。「何故ですか」などという質問は許されない。とにかくやれということである。実行しているうちに、何故なのか判りかけてくる。挨拶の必要性を説くよりも、「こんにちは」と挨拶することが大切なのである。 
 傷つけられても傷つけてはならない。盗まれても盗んではならない。いじめられ、仲間はずれにされても、いじめ、仲間はずれにしてはならない。いじめられる人は仏様に叱られないが、いじめた人は叱られること、仏様が許さないことを知っておくべきだ。いじめるよりもいじめられる方がずっといい。
 幸せを求め探し回ってもどこにもない。幸せは外ではなく自分のうちにあり、仏様の教えは、日日の生活の中にある。
 観光客は静けさ、癒しなどを求めて、京都にやってくるが、京都にはない。
 山の中にいても虫の声や川のせせらぎの音はやかましいが、繁華街の真ん中にいても、静けさは味わえるし、癒されもする。
 文化財を見、山紫水明の美を求め、僧侶の話を聞き、自分を磨こうとする人も京都に来る。しかし自分を磨くのに文化財も山紫水明も僧侶もいらない。自分を磨く一番の近道は「我慢をする」ことであると修行僧は知っている。うそだと思うなら、今日から一週間文句も愚痴も言わず、自分に責任があると心に問いかけて、忍んでみるといい。一週間実行すれば、磨かれた自分に気づくはずである。
 すべてのものは内にあって、外にはなく、京都にも無い。
 これ以上言うと観光客が来なくなると市長に叱られそうなのでここでやめる。
(「京都新聞」2006年11月1日付夕刊、コラム「現代のことば」)

(掲載:2007/01/15)