後藤典生住職の法話

死出の旅路(三途の川)

 地獄図を描いてもらったところ、閻魔大王と三途の川を渡っている人々の姿が描かれていた。存在感の有る立派な絵だが、実は閻魔大王も三途の川も地獄にはないものである。   
 仏教徒は死ねば、次の世界に行く。天国・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界があり、何所へ行くかは十回の裁判によって決まる。初七日・二七日・三七日と続き、四十九日までに七回の裁判を受け、さらに再審として百か日・一周忌・三周忌(実質二年目)、計十回の裁判で結審となり行く先が決まるのである。
 余談になるが、なんとか良い所へ行ってほしいと思い、残されたものは故人を偲び、讃え、裁判官によい影響を与えるために裁判の前日に法要を行う。これを逮夜(たいや)という。最近逮夜を土曜日、日曜日に行うところが多いが、理論的には裁判の前日以前に行わねばならず、裁判が終ってから逮夜をしても手遅れである。
 初七日の裁判を受け、二七日に向かう途中、三途の川が流れている。生前比較的いいことをしてきた人は橋を、少し悪いことをしてきた人は浅瀬を、かなり悪いことをしてきた人は深みを渡らされることになるという三つの渡り方がある。
 閻魔大王も五七日(三十五日目)の裁判官であり、地獄におられる方ではない。
 ところで閻魔大王を初め、十回の裁判官が裁くのは、戒律を守り、仏教徒として生きてきたかという生前の罪である。
 守るべき戒律を、私は次のように教えている。物の命を殺すことなかれ、人の物を盗むことなかれ、男女の道を乱すことなかれ、酔いしれて勤めを怠ることなかれ、他人の過ちをいいふらすことなかれ、己を誇り他をあしざまに言うことなかれ、怒りによりて自分を取り乱すことなかれ、神仏や祖先に不敬の念を抱くことなかれ。
 これだけの事であり、これができれば地獄に堕ちる事はないが、なかなか守れない。
 お釈迦様もその事を知っておられ、私たちが戒律を守れない原因は、むさぼり・怒り・愚かさであり、自分の身と口と心により生じるのであって、自ら懺悔せよと言われている。ここで大切なのは戒律を守れなかったことの原因は、自分自身にあって、外のものや他人のせいにしてはならないという事であり、自己責任が仏教徒の原則であり、戒律を守ろうと努力し、守れなければ反省懺悔するということを繰り返していくのが仏教徒のたしなみなのである。
 三途の川の渡り方、裁判の行方は、全て生前の自分の行いによって決まるということを現代人は肝に銘じてほしい。
 三途の川は六文銭をもって行けば、渡し舟で渡してもらえると聞き、お寺で六文銭を買い、「俺が死んだら棺桶に入れてほしい」と奥さんに頼んでいる友人がいるが、奥さんはコソッと私に「絶対に入れてやらない」といっていることを本人は知らない。
 また閻魔大王の前で、「俺が悪いんじゃない酒が悪いんだ」と言うこともなかれ。
(「京都新聞」2006年9月19日付夕刊、コラム「現代のことば」)

(掲載:2007/01/15)