後藤典生住職の法話

忍ぶ心

 一年ほど前、京都産業大学教授、須藤眞志先生と日本が国連の常任理事国になることで議論になった。私はよその国に頭を下げ、頼み込み、多数派工作をしてまで、なるべきではないと思っていた。しかし須藤先生は、国連にこれほどの分担金を出している以上、なって当たり前だし、多少の無理をしてでも今常任理事国になるべきであるといわれた。友人の外交官たちも同じことをいう。
 それから一年、日本の常任理事国になるという工作は失敗したかのように見える。もっとも、小泉総理は外遊の度にいく先々の国々で、常任理事国になる為の支援を頼んでおられるからあきらめてはいないのであろう。
 湾岸戦争の時、一兆数千億円を負担したのに、国際的に評価されなかった。またサマワで自衛隊があれほどの貢献をしたのに、国際的に宣伝されていない。そして中国を初め、アジア・アフリカ各国に対し、ODAで多額の費用を捻出しているのに、その国の人々に評価されないのは、広報活動ができていないのではないかと批判されている。
 高台寺には年間百万人近くの人々がお参りになる。多くの参拝者は仏様に頭を下げ、頼み事をしている。しかしそんな事をしてもなんの御利益もない。なぜなら仏様は木、鉄、銅、陶器で作ったものでしかなく、何万回頭を下げても御利益など受けれるはずがないのである。
 なのに、僧侶たちは深々と仏様に頭を下げている。
 それは御利益を求めるためではなく、神仏を尊び、祖先に敬意を払っているからである。今日多くの人々は神仏や祖先に頼み事はするが、敬意を払わない。仏教徒のたしなみは「神仏を尊び、神仏に頼まず」、それが仏教徒の心である。
 人に親切にするとき、見返りを求めるのか。人に友情を持つときに、友人にもそれを強要するのか。恋人や夫婦の間で、自分が愛しているから、相手にも愛してほしいと願うのか。
 仏教の心は見返りを求めないものである。
 それどころか、親切にしていること、友情を持っていること、あるいは愛していることを全く相手に感じさせず、知られず実行することが仏教では大切だとされている。相手がこちらの心を全く知らず実行している事を「陰徳を積む」と呼び、私の言葉で言えば、その心を『忍ぶ心』と言う。
 世界中少しでも、他国に援助をすれば、俺の国がやっているんだという国が多いのに対して、成すべき事をなし、すべき事をしていても、少しも恩着せがましく言ったりしない国があってもいいのではないか。
 もしそんな国があれば、それは「日本」であろう。
 真の国益とは、日本がしている事を知ってもらうことなのか、日本が何も言わずにすべき事をし、なすべき事をする国であるのか、常任理事国になろうとする今日、なることを含めもう一度考えてみてもいいのではないだろうか。
(「京都新聞」2006年7月18日付夕刊、コラム「現代のことば」)

(掲載:2007/01/15)