木下長嘯子とその世界

歌の「歌仙」と呼ばれる北政所ねねの甥、木下長嘯子(ちょうしょうし)について紹介します。
木下長嘯子ってこんな人長嘯子って裏切り者?長嘯子の恋の歌




木下長嘯子ってこんな人

 ひとりともし火をかかけつくして─「山家記」より

 木下長嘯子は名を勝俊といい、北政所ねねの兄、家定の嫡男として永禄12(1569年)尾張に生まれています。兄弟にはあの裏切り者とされる小早川秀秋がいます。その世評は彼にも及びますが、そのことはあとで触れることにします。
 幼い頃から秀吉に仕え、19歳に時に龍野城主となり、文禄3年(1594年)26歳で左近衛権少将、若狭小浜城主に。
 その一方で若い頃から歌、文に親しみ、長嘯、挙白堂などの号で多くの詩歌を残しています。
 和歌の師は細川幽斎で、松永貞徳、藤原惺窩、林羅山、春日局、小堀遠州、冷泉為影、九条道房らと親交がありリーダー的存在でした。その歌風は感動の発露の中にいきいきとした清新さが息づき、近世和歌の革新の萌芽を内包していたといいます。ひとことで言うと、人としての感情、心の動きをありのまま奔放に表現していたのです。大名として最高の文化的素養を備えていた人物と言えます。
 彼以降の歌人といえば、近代に入って斉藤茂吉たちの出現を待たなければなりません。
 これが木下長嘯子をして「歌仙」と呼ぶいわれなのです。

長嘯子って裏切り者?

 あらぬ世に身はふりはてて
大空も袖よりくもるはつしくれかな

 最初の歌は、慶長5(1600)年、関ヶ原の役の前段で伏見城を退出する折りの作とされています。この時、彼は石田三成の攻撃に城を脱出しますが、関ヶ原の役の後、徳川家康に裏切り者とされ領地を奪われてしまいます。これが彼を裏切り者と決めつけ、彼が出家して東山霊山に隠棲し、文雅の道に入るきっかけとなった事件です。しかし、これは彼の弟、小早川秀秋の関ヶ原での西軍からの寝返りとは、少し違う意味があるようです。


写真
(圓徳院から高台寺への坂)
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(圓徳院所蔵 木下長嘯子像)

 しかし、長嘯子、勝俊は武人になりきれず、文人であることを自ら選んだのでしょう。そこには秀吉という一つの権威が去ると、また争いを繰り返すという人間の欲に目を背ける彼の姿が浮かび上がります。「あらぬ世に」とは、秀吉が亡くなってしまったことを意味し、そのもとで生きてきた自分自身の時代も終わるのだという感慨がこめられています。批判というよりも人間的な悲しみと言ったほうがいいでしょう。

 なき影にまた袖ぬれてつかへけん
昔を今の賎のをた巻

 長嘯子の人間的な悲しみは、深く敬愛する秀吉とねね夫妻を失ったことにはじまっているようです。
 この歌は高台寺に宛てた書簡の中で詠まれています。秀吉とねねの縁の地を訪ね、遺像に見えて涙をこらえきれなかったという一節。
 彼は関ヶ原の役を機に、武将として自らは秀吉に殉じ、文人として生きようとしたことは想像に難くありません。決して裏切りなどではなく、自らの求める道をまっすぐに歩きはじめたということなのでしょう。

長嘯子の恋の歌

 おもふてふことはかくこそおほえけれ
またしりさりし人の哀の

 勝俊の歌には恋の歌が多く見られます。しかも恋をしている本人しか詠めない歌が。
 この歌がそうです。これは恋することの苦しさ、悲しさ、はかなさを詠んだものでしょう。勝俊自身の煩悶するような切なさが伝わってきそうです。彼の恋の歌はどれも想いがストレートに詠まれ、読む者の心を動かさずにはおきません。
 寛永16(1639)年、勝俊は、円徳院に遺言とも言うべき書簡を送って、東山を去ります。そして洛西小塩山の麓、勝持寺の側に庵を結び、余生を風雅の内に過ごしました。その寺がその昔、佐藤義清という勇猛な武将が出家して西行と名乗った寺であることを考えると、勝俊が最後の時を過ごすのにこれほどふさわしい場所はないと、誰もが感じられることでしょう。
 まさにロマンチスト長嘯子の面目躍如というところでしょう。